そらみずちの人々


古谷 祥一郎(ふるたに  しょういちろう)

 

鳥取県智頭町生まれ、双子の女の子の子育て真っ最中です。家内が近所で「野原のCAFEぽすと」を経営。地域や移住者のコミニュティー場所として活用しています。中国山脈が日本海の水蒸気を雨に変え、きれいな水と空気を生み出してくれています。智頭町は鳥取県内でも水質は一番とも言われていて、お米はとても美味しいです。

 自然栽培に興味を持ったのは、6年前に、奇跡のりんごの木村秋則さんの講演を聞いたのがきっかけ。人は自然から教わり、地球の大地を再生する意識をもって農業に取り組まなければいけないと思いました。最初は一反程の米作りから始まり、現在、仲間と五反の米作りと二反の畑で、穀類や野菜を作っています。まずは自分達の出来る範囲で生産、自給自足を目指します。
 無農薬・無肥料で育ったお米や野菜を食べると、体が元気になります。実際、自分で試してみた栽培実験では、動物性有機肥料(鶏糞、ぬか、草類)を土にまぜて出来た野菜と、無農薬・無肥料の土で育った野菜を多くの人に食べ比べてもらったところ、殆んどの人が、後者の野菜のほうが体に入っていく感じがして美味しいという結果になりました。


嶌田浩(しまだ ひろし)

 

生まれも育ちも愛媛県。長男であるしここを出ていくことなど考えもしなかったが、嫁さんと知り合い初めてアトピー性皮膚炎とか、アレルギーなどという言葉を耳にし、自分にはとんと縁のなかった言葉で、聞けば子供の時かららしく、結婚してから長男が産まれ、アレルギー科の先生にすさまじい数のアレルギーの物質の品目?や数値の書いた紙をもらい、愕然としました。この子は何を食べていけばいいんだろう?そのアレルギー物質の中には「土」アレルギーなどと、ふざけた文字があり、この地球で住めないのか!?私と嫁さんのなかに何かがプッチンと切り替わりました。これは何かが間違ってる!いや、そもそも最初の最初から何かがおかしいと、レコードのA面からB面に切り替わった瞬間でした。

 しかし、もやもやした日が流れて、くしくも長男が二歳の誕生日、3月11日。東日本大震災が起こり、その数週間後に被災地のボランティアに加わり、どうにか現地にたどり着くやいなや愕然としました。何もない!何かあったであろう所に何もない!しばらく頭がフリーズしました。被災地では、流された家や自動車などの撤去作業を担当し、35年ローンで建てたマイホームであったであろう家や、超高級車であったであろう原形をとどめない車などをもくもくと撤去していて、気づいたことが、「地上にある人の作った物質に価値はない!」、余りにも短絡すぎる考えですけど、これを基本に考え行動しだすと、いつの間にか自然栽培にたどり着いていました。

 2012年に智頭町に移住し、米、野菜を自然栽培で育てて、加工品は味噌、塩、ジャムなどを作っています。他には、民泊もしていて、泊まって頂いたお客様に、ここでしか、今しか食べれない食材でおもてなしをしたり、特にアレルギーのあるお客様がうちを選んで来ていただけると、自然栽培をやっててよかったなぁ。と、いつも思います。

 肝心の嫁さん子供のアレルギーはどうなったかというと、アレルギーの反応は出ますが、症状の質が全く変わりました。不快なだけのものから、今では異物を体内に入れたサインとして読み解くことができるようになったようです。長女が産まれ四人家族になり楽しくやっています。

 百姓になろうと、十五年働いた会社を退職し、いざ始めようとするも余りにも農家になるということのハードルの高さに愕然としていた時に、愛媛県の松山市で木村式自然栽培を実践されている佐伯康人さんに出会い、押しかけ女房的に、給料はいらないので一年間勉強させてくださいと、藁をもすがる思いで飛び込み、いろいろ学ばせていただきました(本当にお給料はくれませんでしたが)。私にとっては自然栽培が初めて見た親鳥で、普通の農法は今でも全く知らないままです。

 普通の農法では作物は作るものだそうですけど、自然栽培的な目で見ると、自分が作ったなどと口が裂けても言えない(子供にはパパが作ったと言っているが・・)、何か見えない力で生きている、いろいろなものを、できるときだけ、できただけいただいている。そんなふうに感じざるを負えない何かをいつも感じとれます。

 大型機械にまたがって作業をするのが悪いとは少しも思いませんが、子供も米、野菜達もおんなじで上から見下してものを言ったて、萎縮すれだけで、相手の本当の気持ちや思いは伝わりません。やはり、同じ目線にまで目を下ろし、時には股の下まで覗くように、対象物に近ければ近いほど、温度や湿度、においや味といった五感で感じ取れる空間まで自分が寄り添っていくことで、お互いが気持ちのいい関係になれるのだと、自然栽培の見本であり、バロメーター的な二人の子供を見ながら日々軌道修正しながら生きています。

 媛で暮らしていた時に科学的なものを使用しない食べ物をいろいろなところから調達させて頂いていた側から、今度は私たちが、普通に、安心して、気軽に、定期的に、手に入る、そんな世の中にしていけたらいいなぁ。今は狭いコミュニティでも、智頭町から鳥取県、日本から世界中へ、今は小さな自然栽培が芽吹いていくと、いつか満開の花が咲くことを思い描いています。

 自然栽培から(子育てからも)学んだ大事なこと。あせらない!いつかその時が来るまで待ってあげる!その時が来たら勝手に大きくなる!人も植物もすべて否応なしに今いる空間、環境に影響を受け、食べたもの、吸収したもので、現在の物質は構成されている。私の目標!まず一番小さなコミュニティである家族を幸せにすること。家族を幸せにできないようでは、世界を幸せになどできるわけないからね。

 自然栽培のお野菜やお米、お味噌など、できたもの、今あるだけを、になりますが、食べて頂けたら幸いです。移住を考えている方、アレルギーの関係で旅行や外食を気軽にできない方、どんなところで育っているのか、興味がおありの方は、是非民泊も体験してみてください。


志水亮介(しみず りょうすけ)

 

家の周囲に約2反の田畑があり、家庭菜園程度に栽培しています。高齢者福祉施設で正社員として勤務する傍ら、出勤前の2時間を使い約30品目を栽培しました。昨年度で2年目となります。自然栽培の考え方を教科書に肥料、農薬は畑には入れていません。苗や種の購入には一般の物も使用しています。野菜を作る目的は『幸せで豊かな生き方』をする為。その為に重要だと考えるのは『生かされている』事を感じる事。野菜を作ることで自然を感じ、自然の恵みが作物を育ててくれている事を実感できます。自然栽培という方法を選んだのも、『自然を規範(お手本)』とする考え方に共感した為。『生きている』と思った時にエゴや比較感が生まれストレスを感じるようになる。

 『生かされている』という事に感謝する。そんな生き方の中心に『自然栽培で野菜を作る』事を行い、色々な方と共有し生活していきたい。今の自分のスキルや環境に合わせて無理なく実践しています。

 きっかけは自然栽培農家さんとの出会い。それまでは『健康に良いもの』=『オーガニック』と思っていた。食べるものに効果や効能を求めていた。自然栽培の魅力は自然規範。つまり自然をお手本とする事。野菜の栽培に留まらず、自分の考え方、周りの人や取り巻く環境すべてに、自分の行動が作用していく。そこを理解し、自然を規範とした考えを持つ。その事を自然栽培農家さんの手伝いをさせてもらいながら体験する事が出来た。書籍やネットでの知識ではなく体験する事で強く感じ自然栽培の魅力を知る事になった。智頭へ移住し、『そらみずち』の活動に参加することで更に自然栽培をやってみようという原動力になっている。

 自然栽培の考え方の素晴らしさを、食べる事を含め、体験として感じていただけるような活動をしていきたい。家庭菜園を行い野菜、食事、宿泊、滞在などを提供できていけばと思っています。自然栽培の魅力、智頭町の魅力を発信し興味のある方と交流を持ち、智頭町での自然栽培の輪を広めていきたいと思っている。

 食べ物を育ててくれる自然に感謝してほしい。食べ物を通して自然とのつながりを感じ『生かされている』事を実感してほしい。その為にも自然のエネルギーを少しでも多く蓄えた野菜を作れるように日々、工夫と努力をしています。現段階では100%ですと言い切れる作物ではありませんが、肥料を施さない野菜はとてもおいしいです。作り手の生き方や考え方を理解していただき、食べていただきたいです。野菜を食べる事で『生かされている』事を実家していただけると幸いです。


横田雄士(よこた ゆうじ)

 

奈良から子育てを期に2020年に移住しました。生まれも育ちも都会っ子で目に映る景色一つ一つが鮮やかです。暮らしの中に山や川があることを心地よく感じて日々過ごしています。
 以前は大阪で訪問看護師をしていました。利用者の方の暮らしを最期まで支えていく過程で生きる喜びに「食」がたびたび関わっている機会に出会い、関心を持つようになりました。そんなとき近所のお店の市民農園に参加。そこは自然農の畑で、作物を育てていくことの楽しさを教えてもらいました。
 智頭にきて、家の隣の畑で少しずつ野菜が自給できるようになりました。一粒の種から苗を育て収穫するまでお世話することは手間はかかりますが、種があれば大丈夫。食べていけるという安心感を感じてます。同時に畑にいろいろな種を播いてみたい、できた野菜がまた種を落として、畑を種の森にしてみたいという気持ちも膨らんできました。
 人が適度に手を入れることで荒れていた山野も風通しが良くて居心地の良い空間になっていくことを自然栽培の考え方を通して実感しています。 
 そらみずちでは野菜や大地、里山との付き合い方を学んでいます。自給生活を継続した働き方をただいま模索しています。


前田賢太郎(まえだ けんたろう)

 

 たまたま読んだマンガで知った森のようちえんを知って横浜から智頭町に移住。子供ために自然をと思い、自分はサラリーマンとして過ごすつもりだったが、森に囲まれた生活、智頭で出会った面白い方々に影響を受けて自然の流れに沿った生活がしたいと思うに至った。これからは半農半シフォンケーキ屋?

 そもそも農業どころか土に触れるのも苦手だった。手が汚れるのが大嫌いだったし、腰も悪い。種を植えて数か月後に収穫という長いスパンでの作業も苦手だった。食べる物に関しても、食事はエネルギー補給としか考えていなかったので、カロリーメイトがあれば良いと本気で思っていた。

 やはり最初のきっかけは子供と、その食事を気にした妻だろうか。長男の離乳食を始めた頃から妻は野菜の産地を気にしだした。原発事故の影響が心配だったのだろう。確かに子供のこととなると心配になる。だが、まだ、だったら自分で作ってしまえとは思っていなかった。

 智頭に来てから食べ物に関して大きく考えが変わった。ご近所からいただく収穫したても野菜の美味しさなどにも感動したが、きっかけは味噌だったと思う。移住して初めての冬に、同じそらみずちのメンバーに誘って もらって生まれて初めての味噌作りを体験した。大豆を茹でて潰して~と一通り経験させてもらい、約一年後に食べてみたら、、、今まで買っていた味噌は何だったのか?と思うほど衝撃を受けた。素人が教えてもらいながら適当に作ったような味噌が、今まで食べた味噌の中で抜群に旨い。それから毎年味噌を仕込んでいる。もうスーパーでは買えない。それは味噌だけではなくなった。スーパーに並んでいる食品全てが、疑わしくなったような気がする。だからと言って何も買わないわけではないが、何が入っているのかは気にしてしまうようになった。それなら、作れそうな物は自分で作れば良い。なので野菜も作ろう。強いて言えば、それがキッカケだったように思う。

 その味噌作りに誘ってくれた友人から自然農の本を借りたことも一つのキッカケだった。本を真似して耕さずにミニトマトを作ってみたり。そうこうしている内に智頭でナチュラルハーモニーの河名さんの講演があり、町民は無料だからと行ってみたら、自然栽培という生き方を知ってしまった。子供に残したいのは、健康な身体と心、後は生きていける力。学力や経済力よりも、自分のペースでどこでも生きていける力。それは自然と共にあるような気がするので、それを伝えられるようにしたい。


細山周一(ほそやま しゅういち)

 2015年4月に神奈川県川崎市から源流の町、智頭町に家族で移住してきました。川崎では美術塗装という仕事を16年していましたが、智頭町では林業に携わり、米を育て畑を耕しという180度違う生活を送っています。

 移住の切っ掛けになった原発事故から多くを学び、環境や食の安全の裏側を知り、その事で自分で1から本当に信じられる作物を作ろうと始めた自然栽培でした。

 初めは耕作放棄地の茅を抜き耕し獣害対策の柵を設置して数ヶ月掛かってようやく植え付けまで漕ぎ着けました。あれから6年経ちました。失敗を何度も繰り返し日々勉強しながら何とか続いています。作付けの農地も広げつつ米を中心にライ麦や少しの野菜を育てています。これから搾油用の向日葵や蕎麦も始めていきます。何れは自分で採ったものだけで充実した食卓が飾れるようにしたい! 
 目標の百姓(農業従事者という意味ではなく百の仕事ができる人)になれるようこれからも日々精進して参ります。


山口武(やまぐち たけし)


大学時代にアラスカをカヌーで川旅したことが人生の最大の自由を感じる。星野道夫の写真に影響を受けて出版社を7年勤務後、フリーランスに。チベットからアジア、アフリカ、中東を旅行。インドでヨガに出会い、2年に一度はインドに通いながらヨガとアーユルヴェーダを学び続ける。子どもを授かったことを機に森のようちえん「すぎぼっくり」のある智頭町に移住。2021年より美作市の「お山のおうちえん」スタッフとして、3歳から小学生までの子どもたちと関わる毎日です。


岩田  和明(いわた かずあき)

 

      自然栽培の味は子どもたちの反応が教えてくれた。もらって帰った人参を気づいたら下の子がそのまま丸ごとボリボリ食べている。なんとも美味しそうに。それに習って食べてみると、これまでに食べたこともない別の食べ物だった。歯ごたえと甘みがしっかりあるのに嫌な後味がまるでしないのだった。智頭に来た頃、何から始めたらよいものかと、そらみずちの人々のところへ伺って回っていたころ、その大事な野菜を頂いて教えてもらった。子どもたちがボリボリ食べられるものを作って味わえるようになりたいなと思った。
        2013年に移住を開始。それまで10数年勤めていた会社を辞め、岐阜の森林文化アカデミーで環境教育を学び、インタープリテーション、森のようちえんやプレーパーク、子どもキャンプ、パーマカルチャーなどを経験する。その後、山梨の都留環境フォーラムにて実践的パーマカルチャーを学びつつ、馬を飼いはじめて伝統耕作復活プロジェクトを開始。地域に残る記憶を頼りに馬耕を実現し、全国馬耕キャラバンやはたらく馬フェスを主宰。また子どもキャンプや小屋作り、チームビルド、コーチングなどを通して小学生から大学生の教育に関わる。智頭へは新田サドベリースクールを知り2018年に家族と2頭の馬とともに移住。智頭町の協力隊となり、自然栽培そらみずちの活動に関わりながら、耕作放棄地の開拓と活用を開始。サラリーマンの頃に学んだ不耕起栽培の稲作も取り入れながら馬耕を実践している。また森の間伐をしつつ、森の畑や遊び場を作り、プレーパークを開催してきた。